カテゴリー: 自分

  • 本のサイズ

    ブックカバーを買おうと思ったのだけど、どのサイズのブックカバーを買えばいいのかよく分からなかったということをきっかけに本のサイズを調べた。新書、文庫本くらいはわかるんだけど、それ以外はよく分からない。ざっと調べると、主に文庫本、新書、四六番、A5版、B6版、B5版、B4版があるとのこと。

    所謂一般書のサイズは四六番と言うものらしい。聞き馴染みのない言葉だが、この名前は明治維新後に導入された洋紙のサイズを起源にもつ。それまでは「半紙」や「美濃紙」などの和紙を使っていたが、西洋化の流れの中で洋紙が輸入されるようになると、この時に印刷洋紙として使われていた「四六番原紙(788mm × 1091mm)」が印刷用紙の基準となった。

    明治末から大正期にかけて、出版業界が拡大し、効率的な洋紙利用と印刷機の共通規格が求められる中、四六番は扱いやすく、読みやすい、さらに印刷効率が良いサイズとして単行本のサイズとして定着していった。因みに書籍の四六番は洋紙の四六番を十六分の一にしたサイズで、約127×188mmとなっている。

    名称寸法用途例
    文庫本約105 × 148小説、軽めの読み物(ポケットサイズ)
    新書約103 × 182教養書、ビジネス書など
    四六判(しろくばん)約127 × 188一般書籍、単行本で最も多いサイズ
    A5判148 × 210専門書、学術書、漫画単行本(大きめ)
    B6判128 × 182漫画単行本、一般書籍
    B5判182 × 257雑誌、教科書、技術書など
    A4判210 × 297写真集、資料集、ビジネス文書など

  • 早起きは三文の徳

    早起きは三文の徳というし、今は朝型の時代だというけれど、それでもなかなか起きれずに夜型になっている人は多く、私自身朝早く起きるのはなかなか辛い。更に今はスマートフォンをというのがあって、朝起きてすぐにSNSや動画なんて見出したら、全然布団から出ることができない。

    朝が苦手なのは若い頃からで、大学生の頃は、1限になかなか出ることが出来なくて、1限の授業がある時は、寮の同級生に起こしに来られるが、それでも寝ていて、じゃあ、先に行っているよ、なんてことが多かった。今から振り返ると駄目な大学生、駄目な若者の典型だけど、まさに自分がそうだった。

    10年前までは、深夜まで飲みに行ってタクシーで帰宅、朝までクラブで踊るということが、イマドキだったけど、今は夜は早く帰り朝早く起きて活動するのが意識が高いと言われる世の中になった。仕事だってそうで、以前は終電後まで働いて、そこから更に一杯やって、深夜タクシーで帰るというのが常の時期もあったが、今は出社前にランニング、カフェで勉強、活動をして、そこから出社というのが意識高いビジネスパーソンとのこと。

    今、YouTube界隈では30日間5時起きチャレンジというのが流行っているようで、海外ではI woke up at 5am for 30 daysHow I Wake Up at 4:30 AM Every Day for 4 Years (My Miracle Morning Journey)なんて動画が数百万再生されている。

    寝ずにハイテンションでいるより、睡眠して健康な生活をしていくことがより評価される時代になったということだろう。

    睡眠に対する研究も進んでいる。睡眠のゴールデンタイムは22時から2時と言われていて、この時間帯は成長ホルモンが多く分泌されるとのこと。

    この成長ホルモンの分泌は主に視床下部と下垂体の働きによって調整され、視床下部は成長ホルモン放出ホルモン(GHRH)を分泌し、これが下垂体前葉に作用して成長ホルモンを分泌する。成長ホルモンの分泌は、睡眠中、特に深いノンレム睡眠中に増加し、この深い睡眠は通常、睡眠の最初の数時間に現れるため、午後10時から午前2時の「ゴールデンタイム」が重要とされている。また、成長ホルモンの分泌はサーカディアンリズム(体内時計)にも影響されるため、この時間帯に高まる傾向があるとのこと。

    朝にランニングすると気持ちい。夏の朝はまだまだ涼しいし、街も周りの空気も静かだ。犬の散歩をしている老夫婦、同じようにランニングをしている数人とすれ違う。自分の足音が一定のリズムで響く。

  • 何を書くか。

    何かを書こうと思ったとき、考えていることをまとめるには技術がいるんだけど、その技術がない自分では、何かを書こう、何かを書こう、何かを書こうと何度か考えて、気がつけば時間だけが経ち、目の間には真っ白な画面が広がっていることになってしまう。

    ではどうにかして技術を身につけないと書くことはできないんだけど、技術というのは習いながら身につけるものではなくて、書くことによって身につけるものなんだろうと思う。

    一方で、書きたいものがないのに技術で書こうとしたところで、それは全く意味がなく、そのような文章は中身が無い空疎な文章になり、そんなものを残すことは世の中にとって有害で、書いて人に届けたいというものがなければやらない方がいいという意見もある。読んだ結果何も得るものがなければ、その文章は単に人の時間を奪うだけの有害なものだということだ。

    それについては確かにそう思うのだけど、ではどうしたらいいのかと問い返したくなってしまう。

    「お前が書こうとしているその文章は無意味で有害だというんだけれど、では、世の中で書かれている多くの文章にどれだけ意味があるものがあるのか。」と。

    世の中を見渡すと、正直、くだらない、品がない安直な文章で溢れている。ニュース記事にしろ、ブログにしろ、エッセイにしろ、ハウツー本にしろ、ほとんどの文章はそもそも要らないし、残るものでは無いだろう。ではなぜこれほど過剰に文章に溢れているんだろうか。いや文章だけではない。映像だって写真だって、ウェブ上は多くのもので溢れている。

    インターネットが広がったことで、全ての人が書き手になり、すべての人が映像の創り手になったのだと、原因がインターネットにあるような言説が多いが、雑誌やラジオの投稿、同人誌、学級新聞など、意味のない文章はそれ以前から広がっていた。有害だろうが目的がなかろうが、人は文章を書き、映像を作り、人に自分の創作物を読ませたいんだろう。それは決して才能がある一部の人だけのものでなく、多くの人に備わっている欲求なんだろう。

    などと考えながら、この場は書くために書く場だと思い、何を書くかを明確にするために書いていこうと思う。書くことでわたしはどこに行くことができるのか、ということに今興味を持っている。